写真

25才新宿歌舞伎町の露天絵描きさんに書いてもらった。

建築家 秋山東一氏に、ライカで撮ってもらった写真

 

 

 

千葉県安房郡天津小湊町に、産婦人科医の祖父の元で産まれる 

父は警視庁警察官

東京都府中市育ち(1~25歳)

育った家は都営住宅、木造平屋長屋造り、セメント瓦に外壁杉板南京下見張り、床は檜無垢板張り、壁は真壁、漆喰塗り、天井杉板、断熱材なし、その住宅も取り壊され、建替えた鉄筋コンクリート共同住宅暮らしではじまった母親の喘息

今思えばこれが今自分の建築につながる原点に

 

小学校での得意な科目は、無し 通信簿オール3でした

中学校は小室哲哉、漫画柔ちゃんの漫画家浦沢君と同じ中学 剣道部に所属するも勝利経験なし 父には警察官にはなれないぞと言われる 

技術と家庭科が得意科目で通信簿では5 あとは相変わらずのオール3

高校 都立南多磨高校(東京都八王子市)に入学 体操日本!体操部に所属 古文漢文の授業では先生に当てられるとクラスのみんなが笑うほどの成績 数学は得意になって当時理科系での人気学科 「建築科」を志望

造園学科に行きたい気持ちもあわせもち、後に1級造園施工管理技士となる。

大学 千葉工業大学建築学科合格 学べることが楽しくて楽しくて 黄色い総武線を三鷹から津田沼まで毎日往復 電車の中でも建築のことばかり たくさん本を読みました 

建築研究会の副会長 有名建築見学や設計コンペなどたくさん 建築が本当に好きで仕方がなかった大学時代 設計課題が出るのが楽しみで・・いつも廊下に貼り出されているのが自慢

住宅の課題は、いつもパチオ(中庭)とキッチン・浴室は、日のあたる南にあって

宮沢研究室というあの舘ひろし(当時クールス)と同じ研究室 

ちなみに彼は授業はまじめに出てたし・・デッサン上手でした

卒業設計は、ドアのない少年院計画 当時森下愛子が出ていた少年院の物語

「サード」という映画に引っ掛けて発表・・・笑いは取れたが・・全国卒業設計展には選定落ち・・

卒業成績優秀賞も一番違いで・・カップもらえず・・・

 

時代は、オイルショック・・先輩の羨ましいばかりの就職先を見てきた私は・・またも・・ショック!

 

就職1 研究室の先輩が代々いている全農配下の農村計画設計入社(現在 JA設計)

耐震構造設計担当が不足しており 数年間との約束で構造もやっておいた方が後々良と思いしぶしぶ承諾

しかしここでたっぷり構造の重要さと他の設計者の構造知識のなさを知ることに・・・

そこに突然の北海道ホクレン出向・・普通新入社員は、2年間は、本社勤務と決まっています。しかし、トイレのブースにてっきり同僚が入っているものと思い・・トイレットペーパーを投げ込んだら・・時の常務が入っていて・・・・1週間後には札幌・・でした

 

一級建築士受験・・同期の仲間は、東京で試験講習会にかよい情報交換してるなか、冬は札幌・・夏は帯広、1日300km走って麦の乾燥施設や東洋一の馬鈴薯倉庫・職員住宅など管理にヘトヘト。

通信教育の予想問題もってマイカーのジムニー幌タイプ(軽の4wd)で熊のいる十勝峠の夜中越え・・・ホコリだらけの体で受験・・なんと4000円の予想製図課題がドンピシャリ!! 人生ついておりました!

      

予定通り東京大手町に戻ったら・・・

建築界は、新耐震法にかわり・・勉強・・勉強の毎日・・・数億工事の構造担当ひとり・コンピュターとストレス・・・下血・・吐血・・十二支腸に穴があいて・・・・小学生から・コーヒー・紅茶・緑茶が飲めない、自分の胃酸で胃壁を溶かしているひとでした

約1ヶ月の入院生活はいろいろ考えられていままで立ち止まることのなかった自分に有意義な時間。

退院後も相変わらず、構造担当者は不足のままで、抜けられそうもなく・・・次の転勤先は、サウジ・・南ベトナム・・・とか ホテルで盛大に送別会をしていただき感謝のなか天職人生の道へ突入! ありがとう!

 

天職への道転職1

丸の内の東京海上ビルに通うサラリーマン・・意匠設計者として再スタート

東京海上社のRC社宅・支社・支店長木造社宅 

全国あちこち飛び回り、1週間3日も日帰りジェット出張。

このとき木造の設計の楽しさを知る!

仕事以外でも住宅設計の機会にも恵まれ・・じっくり設計する充実感・・・これでなくちゃ!

自宅設計 

やりたいことは山ほどあるのに・・お金がない・・失敗は許されないと追い込まれ、自分で追い込み・・・自分が別人に変わっていく

引越しが終わった時から・・・自立神経失調症 何をする力も自信も持てずに半年

だから・・施主のなかにこの状態になっている人がいると・・すぐわかります

無理ないけど・・・私にまかせなさい!安心してください!

35才の自邸設計の反省点は多くも・・そのときの思いは伝わる家づくり。

 

天職への道 転職2

時はバブル時代 大学の友人からの誘いに500億プロジェクトのリゾート開発一緒にやろうと

天皇崩御・・・安定企業の設計課長の椅子が見えているのに、人生一回しかないのだからという気になって、今思えば・・ここが転職、天職人生へのスタート。

サラリーマン一生分の贅沢させていただきました・・海外リゾート視察・自家用へり・日本のバードカービングの第1人者とスポンサー契約し、アメリカでブルーリボンをさらい・・日本にカービングブームをと俳優渡辺文雄と番組を作ったり・・展示会をサポートした。ラスベガスのカービングコレクターのところに1憶円分買いに一人でいったり・・・横浜そごうのバードカービング展では、コレクターのミラー氏をあの皇室紀子様に紹介しました。

グリーンとファースト・スキー・ゴルフリゾート・500名宿泊リゾートホテルを事業主として設計監修

西武より1週間早くフード付4人乗りリフトをオープンさせ、高層リゾートマンションの設計も終え、250億支払い決済したころ・・・

バブル終了

 

天職への道 転職3

債権分離のダミー会社の役員に名を連ねる打診がきたころ

心を入れ替えて・・・・生活協同組合の住宅事業に参画・・

毎日朝の8時から理事長の話を徹底的にきかされマインドコントロール!忠実な契約マシーンに。

とにかく忙しく・・知らぬ間に住宅が完成しどんな喜びがあったのか・・

どんなクレームがあったのか・・知らないまま・・契約に追われる・・・住まい造りがわからなっていく・・・・・

近所のOMソーラー工務店の見学会にちょくちょく出没する隠れOM

もっと・・企業としてでなく・・住まい造りをサポートできることは・・できないのだろうか・・・・と。

 

 

天職への道 転職4

求人雑誌の「住まい造り教室の講師募集」に飛んでいった 住宅総合研究所

資料造りから講演会の企画運営司会進行・・毎日が挑戦で生き生きしていた。

ここでMacにも出会った・・感謝・・感謝

しかし、今でこそ当たり前の住まい教室が早すぎて結果が出せず・・・

結果が待てない、刈りたがる経営者のひと声で終わりました

そこには、外断熱と地熱利用という今、旬の研究実践があった。

宇佐美さんという太陽と大地の恵みの母のような研究者がいて、まわりがそれを理解できる環境でない中で自分を失わず啓蒙し続けた。その信念に頭がさがる思い。その研究者魂は決して忘れない!・・

技術指導課長として高気密高断熱の商品開発を手がけ100棟以上の実績。

今も存在しているようです。太陽の熱を取り入れるパッシブ(受動的)な考え方・・・いつもOMと比較して考えていた・・

しかし、組織になってない組織の脆さ・・自分の危機管理のベルが鳴りやまず・・

 

天職への道 天職1(転職5) 見つけた!

日曜日・・庭でサツキの手入れをしているOM工務店社長を直撃・・

自分を入れてくれ・・・WEB化して受注倍増!

地域工務店の生きざま、親子三代棟梁の職人気質、素朴さ・・住まい造りは、地域に根づくもの 自転車で当時、自宅から5分の環境

OM工務店は、こうあるべきスタイル

初めての出会いから・・土地をみて、家族を知って、夢を語って、プランを練って、図面を作って、見積り作って、調整して、契約書作って、地鎮祭神主手配して、着工の段取して、確認申請だして、中間検査立ち会って・・引渡しして。。引き渡してもまだまだ、点検で床下潜って・・・

みんな、クライアント(施主)と同じ顔の自分がやれるこの充実感!

設計者自ら床下にもぐる!蓄熱コンクリート床のぬくもりを感じ、時に施主とともに語らいながら。手すりは必要になったとき、付けましょうよ、と話に行けること・・・。引き渡し後もホームページ、ブログを見てメールくれるクライアント(施主)・・・・。

 

住まい造りはこうあるべきだろう!!

企業の論理でなく、利潤追求だけでない。。

 

 

こうして今、住まい造りをしている誇りを感じながら。。

 

このころ、保険適用、ピロリ菌除菌、ガスター10よ、さようなら!

だけど、コーヒー、紅茶飲むと、合わない私です。

 

 

天職への道 天職2 独立 未来予想図

地域の○×丁目単位の、多目的看護ステーションと組んだ、既存住宅を活用した高齢者介護施設のコーデネイトなど 私のやるべき仕事が見えたような、私の設計した住宅も、そんな姿に変わって行くとこを望んでいる。

この時代、こんな時代にだからこそ思い切って独立

工務店時代ではできなかった、何かができる喜び。

工務店時代に懇意になった多くの施工業者、工務店メンバーの後押しを受け、自信をもって独立。

工務店時代に多くの共に働いた友、さまざまな個性と感性を持つクライアントとの出会いへの感謝。企業での設計では味わえなかった人と人との交流。

全てが私をここへと導いた。

 

あの、幼い日の過ごした都営住宅の姿、井戸端のある町、真壁無垢素材の家。大学時代の課題作品の中に///

 

全てがここへ至る支流のひとつひとつであり、それが今、ここで大きな一本の本流となったるのを感じる。


 

 

中村真也 Facebook   https://www.facebook.com/sindosya

 ちば山 真童舎(しんどうしゃ) 事務所地図 おゆみ野南4−31−4